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人は何度もくり返し生まれては死に、また生まれてくるというお話。
その時、道端にブルーレースという花が美しく咲いていました。
その花は、放射状にエネルギーを放っていました。
それがまた美しい愛のエネルギーなの。
人が花に癒されるのは、花が純粋な愛を放つ存在だからです。
あぁ、なんてきれいなんだろうと、思ったら、
神さまがこう言うのです。
「このようになるためにあなたは何度も生まれてくるんですよ。
花のように、どこにいようと、誰に見られるかということも関係なく、
どんな場所で、手折られようとも、周りの全ての存在に、
全身全霊で、愛を表現することです。」
人は何度も、生まれては生き、死んでは生まれて、人生を繰り返しています。
体は一回分しか持たないのだけどね、魂は死なないの。
でも、体を持ち、この世に生まれ、人と出会い、
苦しみ、悲しみ、耐えて、時には怒り、
時には優しさに触れ泣いて、愛されて笑い、
あらゆる経験をして、豊かに優しく強くなるのね。
そして花のように、無条件に愛を表現する存在になるんだね。
花、というか植物は、いつも神さまと繋がっている存在でもある。
だから、どんな情況でも悲嘆にくれたりしないんだそうです。
生きて役割を担い、愛を表現できれば、それだけで喜ぶ存在。
花みたいに抵抗しないってことじゃなくて、
岩をも裂いて芽吹いてくる。その強さの方を見てね。
そんな風になるために、この世という仕組みの中に、
何度も生まれて、生きることを学んでいる。
それにしたって、この世には、酷いことが満ちている、と思える。
でもね、こんな酷いことはないくらいの酷いことを受け止めると、
魂は、強く光り輝くの。
強く輝くために、一生懸命生きている私たちを、神さまは見守っている。
苦しいこと、悲しいことに出会っている時こそ、見守っていてくれてる。
多くの守護霊たちが、寄り添って、励ましてくれている。
ただ、そういう時って波長が違うので、感じられないんだけどね。
だけど、必ず、そばにいるから。
この世の仕組みに、カルマというものがあるけど、
これは悪いことをしたら罰を受ける、ということじゃないと思う。
理解の足りなかった分は、もう一回、追試受けてるのよ。
でもね、何度でも追試受けられるから、大丈夫。
私が前回お話した結婚で、一番つらかった時、
それとリンクする前世の記憶が蘇ってきた。
それは、南洋のどこか、戦争のさなか、
私は年端もいかない少女だった。
兵隊につかまり、大勢の兵隊たちの性のはけ口として、
粗末な小屋の中に幾日か分からないほど、軟禁されている。
どうしてこんなことが起こるのか?
虐げられる自分の姿はあまりにも、惨めで、哀れで、無力だった。
動けない体を動かして、なんとか隙をついて、脱走するが、
でも、ほどなく追われ、捕まり、その場で殺されてしまった。
そのビジョンが見え、生々しく感じるその少女の短い人生に、
しばらく受け止めかねて、吐き気を感じた。
前世を見る時、いつも”その時に関連している”前世を見る。
何が何だか分からないまま、虐げられ、自由も得ないまま死んでしまった。
その時に残った思いが、
人はこんな風に力づくで支配され、虐げられちゃいけない。
もっと尊厳がある。どんな人間にも。自由に生きたい。
という思い。
だから、今生で、あの体験が起こったんだって、理解した。
尊厳と人間らしさと自由を。
今度は死なないで、ちゃんと手にしなくちゃ。
それに気付き、私は、ちゃんと手に入れた。
私のカルマが昇華されたのでした。
だから、私は、もうあんな目には遭わない。
そして、花のような強い愛に、一歩近づいたわけです。
前回の日記をアップする前に、
また、キテレツなことを書いてしまった。
みんなにドン引きされたらどうしよー?と、ちょっと不安になったけど、
書きなさいと言われて書いたものだからなー。必要な人もあるのかもしれない。
と、思いきってアップしました。
みなさん、思いのほか受け入れてくださって、ほっとしました。
いや、引いた人もあったかも~。私もう”キテレツ人”扱い?それは最初から?
ん~…仕方ありません。それも受け止めなくてはいけませんかねー。
ぼやきはこのへんにして、今回の本題に入りましょう~。
今日もキテレツかもしれません。
ある時、気付いたのですが、
どうも、他の人には、空から降ってくるキラキラ光る、
光の粒子のようなものは見えないらしい。
見える人もあるらしいけど、多くの人ではないらしい。
人や木や動物やモノも、光を放っていたりしますが、
これは最近流行っているオーラのことじゃないかと思います。
光のベールのように見えます。みんな包まれてます。
私は光っているというのが分かるだけで、それで診断なんて出来ませんが。
確かにその時の調子で強弱があります。
メッセージを受けている時は、ことさら強い光を感じます。
これは私のというより、私の精霊の光が、重なるからでしょう。
目が覚めたばかりなども、強く瞬いています。
あちらの世界に行って帰ってきたばかりで、その余韻が残っているからでしょう。
そういえば、この降ってくる光はなんだろうと、ある時、精霊に尋ねると、
これは神さまの愛のエネルギーです。と精霊は答えた。
なるほど、と思った。
絶えず雨のように私たちに降り注ぐ光は、私たち自身が放つ光と溶け合う。
私たちに力を与えてくれているように。
またある時、この世に起こる悲しい出来事、空しい出来事を思い、
どうして神さまはそのままにしておかれるのだろうか?と問うと、
家を持たず、屋根の無いところで寝起きする人たちの姿が見えた。
そして、彼らの上にも、天上から光は溢れるほど降り注いでいた。
守護霊は彼らと供に、寄り添うように、時を過ごしている。
お見捨てになっているわけではないのだ。
神はどんな人にも、どんな時にも、惜しみなく愛を注いでいる。
共にすべてを味わっているのだ。
この世に絶望は、ないのだ。
と、私は、この時に学んだのです。
そういうわけで、
神さまは、いつも愛とともにそばにいるのだから、
気がねなく、思いきり、苦しんだり、泣いたり、喜んだり、笑ったり、
人生修行に励まなければね。
たとえば、神様との会話について、前世が見えることについて、ヒーリングについて。
魂について。精霊について。カルマについて。生きることについて。
話したらおかしいと思われることが嫌、話しても理解されないことが虚しかったから。
否定されることに、抵抗があったから。
子供の頃から虚空の浮ぶ、体のない光る存在と話をしていました。
変わった子とか、頭がおかしいとか言われるので、口をつぐむようになった。
これまで何度もチャンスはあったけど、どうしても抵抗があって、
特定の分かってくれる友人にしか、語ることができなかった。
このブログではなくて、ブログを初めて一年経っています。
そこで、「スピリチュアル」について、語っているブログがいっぱいあることを知りました。
目に見えないことについて、知りたいと思い、勉強して、学んでいる人たちが、たくさんいる。
そんな人たちのブログを訪ね、時々、抑えられなくてコメントを書いたりしているうちに、
だんだんと、自分も語る場所を持ちたくなったのです。
幸い、今は敷居が低いですね。ブログという手段があるから。
そんなわけで、wacoは自分の心を語るブログを作ることにしたのでした。
ここで、思いっきり、語り合いましょうねー。
長くなってもかまいませんから。コメント入れてくださいねー。
ところで、私は、どこか特定の団体や組織に属してません。
どこかで修行もしていません。本は読んでいるけど、そんなにたくさんじゃないかも。
だから、言葉が分からないことがあります。自分の言葉でしか語れません。
また今からどこかに属す気もありません。
私はすでに地球に属しているだけで十分なのです。あと人間とか、地球とかに。
そこらへんはご承知おきください。
父の再婚で母親が代わるやら、ごたついていて、
何年かは物事が流れてゆくのを見ているだけで精一杯でした。
やっと落ち着いた頃、私は海に繋がる湖のほとりに住んでました。
景色の良い、湖の中のいくつかある埋立て出来た小さな島の、一番海側の端っこ。
県立公園の中に家がありました。そこは私のパラダイス。
住んでいる人も子供も少なかったけど、自然が多いことは何よりでした。
自然は私の友達だったもの。
それから島の端っこに水面を望むように立っている石造りの観音様の足元が
私の一番好きな遊び場所。
観音様の足が乗っている蓮の上に一緒に乗っかり、沈む夕陽を、毎日のように眺めた。
その頃からです。私が神様、と呼ぶ存在と話をするようになったのは。
最初は、南の方角の海の上の空の方の、雲のたなびく辺りから、
声を、存在を感じたんです。
そこから光が差している。自分の方に向かって。
寂しがる子供をなぐさめてくれていたんですね。
その頃にはもう「変わった子」だった私は、誰一人理解者がいないというような
よるべない気持ちをいつも持っていましたから。
この頃教えてもらったことは、
いつもそばに神様はいる。ということ。
この世はとても美しく、愛しい世界だということ。
本当に金の粉が舞うように輝いている。
この美しさを楽しみ、表現することが私の仕事のひとつだということ。
私は神様の元から生まれてきて、この世を旅してから、いつかまた帰るということ。
この時は、まだ気持ちの悪い恐いものも見えたので、
時々、恐い思いもしたけれど、神様はちゃんと守ってくれていた。
南の方に住んでいる神様は、最初は空の彼方にいたけど、
いつしか、呼べばすぐに近くに来てくれるようになりました。
頭の上あたりでキラキラと。
今になると分かるけど、私の管轄の神様は南西諸島らへんにいる神様だったのね。
私は沖縄の地に降りた時、とても懐かしくて、さらにだんなの生まれ島に降りた時、
「あ、私、ここに帰って来るんだ」と感じました。
だんなとの出会いは南の空の彼方の神様の導きだったのね。
そうそう、神様にも管轄っていうか、担当があります。
たいていは生まれたところか、育ったところの氏神様とか、
縁の強い神社が多いですかね。
親が幾度と御参りに行っているとか。自分も何度も行っているような神社。
日本人なら、たいてい思いあたると思います。
教会だったり、お寺の仏様という人もいます。
お稲荷様とかもありかな。山の神様もありだな。
それと神様以外にも、もっと人間に近い霊・守護霊も守ってくれているし、
チームで連携して、守ってくれているのが普通です。
その時々必要な担当者がきてくれるの。教科別の先生みたいに。
校長先生が担当の神様って感じかしら。
だから、神様ごとに個性があるんですよね。校風みたいに。
おっと、こんなこと言って、えらい人に怒られたくないなあ。
あくまでも、私の感じ方ですからねー。