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チミモウリョウって読みます。
今回は魑魅魍魎にまつわる、ちょっとした夢物語をひとつ。

ある時、闇と戦っている人がいるという
お話を聞いたことが、きっかけでした。
その人たち、悪霊を封じ込めたりしてるんだって。
映画や漫画じゃなくて、実際にしている方がいるんだって話。
インパクト強かったんで、縫い物などながら暫く考えていた時です。
久しぶりに魑魅魍魎がそばに寄ってくるのを感じました。
ぞくっとする気配を感じて、ちらと見ると、近づいてきました。

あ~考えてたからなーって、ちょっと嫌な感じもしたけど、
これもお役目というか、学びのひとつと思い、あきらめて、
何が話したいの?って聞いてみることにしました。
話をしにきているのは知っていたので。

すると、魑魅魍魎くんは、
「あいつらはひどい」って、言うの。
「オレを責めるんだ、いじめるんだ、追いやるんだ」って。
「悪い、悪いっていじめる」って。
しょうがないので私は、「そんな気味の悪い姿をしてるからだよ~
姿が違うから、違うものは悪いものだって言われるんだよ」と諭しても、
「だってあいつらがひどいからだ」ってくり返すので、
そんな姿になったのはいつから?なんでそんな姿になったの?と聞くと、

彼は、江戸時代か、もっと前かも。
昔の薄汚れた農民の男の姿になった。
食べ物が乏しい頃だったみたいで、いつも飢えていたし、
誰もが愛よりも何よりも、自分の飢えを満たすことに必死だったらしく、
彼の母親は彼を蹴った。のけ者にしたと言った。
ロクデナシの彼を追い出したって、
荒んで育って、悪い仲間と集まって盗賊になって、
悪さばかりして、人も殺して、
それしか生きるすべは知らなかったようだけど、
それで結局、殺されて山で死んで、
それ以来ずっと、どんどん黒いだんごのように
ひどい姿になっていたそうです。
人を憎んで憎んで、世をのろって身悶え続けてきたと教えてくれた。

ひどい奴しか知らないと彼が言うので、
そんなことはないでしょ?一人くらいいたでしょ?というと、
あぁ、そういえば、
旅の坊主が彼のために憐れんで
南無阿弥陀仏と祈ってくれたと教えてくれたので、
みんながみんなひどいわけじゃないでしょう。
いつまでも魑魅魍魎のままでいていいのか?
と諭していると、彼が反省したんだね。
光とともに、阿弥陀如来がやってきてくれた。
その光を示して、
あそこへ行けば、もう一度生まれなおして学びなおせると教えると、
もう一度会いにきていいかと言われて、
ちょっとぎょっとしたけど、
ちゃんと生まれ変わってきたらいいよと、答えておいた。
それから、あなたのおかげで、また気付いたことがあったから、
あなたがここに来てくれたのは私のためでもあったんだね。
ありがとうと感謝を伝えると、
彼は納得して去っていった。

私も、人のことは言えない、荒唐無稽な話してますが・・・
ガイドが私に分かりやすく見せてくれた物語なのだと思います。

魑魅魍魎とて、元の姿は愛を知らないがゆえに苦しむ人の姿に過ぎないと。
足りないのは、ただただ愛だけだと。
世界を怖がって憎んでいる人には、この世は恐ろしい場所だろうと思う。
この世を愛している私でも、最初は一瞬、その気配や姿にちょっとおぞけるから、
怖くて堪らない人は、拒絶して戦ってしまうでしょうね~。
そのことを確認しました。

でも、これに似た話を私の仲間の一人もしてました。
血まみれの姿の男がやってきて脅かそうとするから、
話を聞いて欲しいなら、それなりの格好で来いとにらんでやったら、
慌てて血をぬぐって、ちゃんとした格好に直して、正座してやってきたって。
案外、有名な霊能力者さんたちも、戦うのではなくて、
そうやって悪霊くんのカウンセリングしてるんじゃないと思いました。
私は専門外なので、あんまりしませんが。

私はほんとに時々なんだけど、
こんなことがしょっちゅうな人も、
私の知人には何人かいます。なぜか男子が多いけど。
でも、何かのマスターでもないし、人にいばって話しているわけでもなく、
生活の中で、まるで生きている人にカウンセリングしているように、
実体のない霊たちのカウンセリングをしている人たちが、内緒だけどいます。
戦ってるとか、使命とかでもなくて、ガイドが言うから仕方ないって。
自分の学びのためにやりなさいって言うからやっている。
こんなことをしている自分はアタマおかしいのだろうか?
なんて私に話してくれました。
これもまた私が闇について学んでいる時の相談でした。

何かのヒントになればと思い今回お話しました。
こんな荒唐無稽なお話も、世の中にはあるということでした。

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人々は闇へつまみを回し、闇にとどまり、
逆にただ光を求め、求めすぎて、闇を生み、
闇のほうへ、光のほうへ、
揺れながら、少しづつ、少しづつ、
はっきりと像が見えるポイントを探している。
でも、なんでそんなに、行ったり来たりする?
なぜそんなにあっちこっちにつまみを回してしまうのか?と
ガイドに問うたところ、
返ってきた答えは「ただただ知らないだけ」。

例えば、私は目の前に問題が起こった時、
それがなぜ起こったのか?
私に何を気付かせるために起こったのか?
まず考える。それを「課題に取り組む」と言っている。
考えて、分からないことは、
ヒントを教えて、と、頼み、
またもたらされた出来事や言葉を、
照らし合わせ、考える。
時にはヒントが来るまで時間がかかることもある。
目の前にあるヒントに気付けないこともある。
でも、ヒントは必ずもらえる。
パズルがピタッと合って、
なるほどそういうわけかー!
と気付いた時、問題は解消される。
解消されないってことは、
課題の的を得ていないんだわね。
的を得たときに、その課題は終了する。
すっきり明瞭に世界はクリアに見えるようになる。

ただ課題が出された時、
それはたいてい、しんどいこと、嫌なこと、苦しいことなので、
「えーーー?!そんなん絶対嫌ーーーー!」と
まず最初に反応することが多い。私も。
ただ私はそれでも、それに向き合い取り組むことしか、
今起こっている問題が解消されることはないことを知っているから。
嫌々ながらでも、気持ちをコントロールしながら、
その嫌ーなことを目の前に置いて見る。
それをしないで、嫌ーーな気持ちで課題に逆らう時、
実は、目盛りがぎゅーっと闇に動くことになる。
嫌ーーーって気持ちで課題から目を逸らし、
課題から逃げる気持ちが、つまみを回すのです。

課題は普通いくつもあって、
つまり、ひとりでいくつもつまみを持っているのね。
つまみはひとつじゃないの。
人生はきっと人が思っているよりも
ずっと立体的に、陰影を作っている。

あの部分は白く、この部分は黒い、
そしてここはグレイみたいにね。
斑になっていることもある。

すべての像が美しくくっきりとすっきりと
見えるようになるには、
たくさんの課題をひとつひとつこなしていけば、
だんだんと自然にそうなっていく。
ただそれだけで、いいんです。
そして、課題をこなすってことは、
ただただ気付けばいいだけ。
分からなかったら、ヒントプリーズすればいいし、
そんなに難しい大変なことじゃない。

実はとてもシンプルなことなんです。
そして、それが生きるってこと。
生きるって、シンプルなこと。

それを、ただただ知らなかっただけ。

闇に囚われ、人々を支配し搾取しようとする
闇に住んでいる人たちのことを考えていたら、
ガイドは彼らの心を見せてくれた。
それは、宮殿のようなところで暮らして、
贅沢なものに囲まれているのに、
その魂は、暗く冷たく小さな箱の中に篭められて、
その中でひとりうずくまっているようでした。
彼らは、気付かない、考えない、向き合わない。
それが、唯一のそこから出られる方法であることを知らないから。
そこから出る事を怖がってさえいるようでした。
闇にいる方が安全だと思っているのだね。
囚われているのに。安全だと思う。

ほんとうに、ただ知らないからなんだあって、
思いました。

深い闇について、といっても、
学びの方法は、ガイドがちょうどいい情報を、
いつも目の前に置いてくれるので、
それを受け取り、それについて考えていると、
そのうち答えをくれる、という、いつものやり方と同じです。
差し出される情報が、エグかったり、グロかったり、
気分悪かったりするだけかな。
やはりそれほどやり方が変わるわけではありませんでした。

仲間も同じように学び、持ち寄って、シェアし合います。
もちろん、シンクロしていて、同じようなものを
別の角度から見たというような話を、
パズルのピースを合わせる様に、持ち寄って組み合わせる。
そんな作業なので、恐ろしい修行とかしてるわけじゃないです。

ただそんな話をしていると、
そんな類のものが寄ってきてしまうので、
多少、しんどい思いはする。
闇に影響されず、淡々と読み解くことが必要なだけ。
そういうレッスンでもあったかもしれません。
この学びは、気持ちが安定していないと、ちょっとつらいかな。

話を聞かされるだけで、気分が悪くなると思うので、
詳細は書かないことにしますが、
人間て、ほんとにひどいことしちゃうなぁって、
しばらく、げんなりするような話が集まってきてました。

そんなわけで、今回は闇の源についての話。

いくつかは、過去生の話で、
土地に染み付く恨みのような怨念が、
また悲惨なことを呼んで、
さらにその場所に重なり集まるのだけど、
もともとを辿っていくと、
古代の儀式、人柱、だったりして。
時の支配者が、民衆を支配するために、
もっとも弱い階層の者を、いけにえに、
生きたまま埋めた。
それが土地を汚した始まりだったと、
ガイドがビジョンを見せて、教えてくれた。

サイキックな力があるゆえに、
人々を扇動するからという理由で、
磔で殺されたというある人の過去世のビジョンからは、
なぜ殺されなければならなかったかを知る必要があると言われた。
その理由は、人々を支配しようとする者が、
人の血を流すことで、人を治めようとしたのだ。

人柱にしても、磔にしても、
その殺され方は見せしめだから、凄惨でむごい。
本人であったら、あまりに苦しみに、
何世にも渡って、その闇に苦しむことになる。
けれど、生まれ変われる人はまだ幸いなのだろうと思う。
そのまま、その場所に苦しい念のまま
染み付いてしまった人も多いだろう。

染み付いてしまった闇は、更なる闇を呼ぶ。
あまりに苦しみから、仲間を増やそうとする。
それが、恐ろしい魔物だといわれ、忌み嫌われる。
でも、彼らは、それほど罪深くはない。
彼らを生み出したのは、彼らをそのような目に合わせた者たち。
人々を支配し、搾取し、いくら満たしても満足できない欲望を満たそうとする。
際限のない欲望。それこそが、もっとも深い闇の源。

けれど、支配しようとする人間だって、もともとは同じ人間。
だいぶ”つまみ”を闇の極まで回し続けた人だけど。

闇の極に振れれば振れるほど、
ガイドとの繋がりを感じられなくなる。
それは、想像力、感性を失くすことと同じ。
どんどん想像できなくなる。
どんどん感じられなくなる。
ガイドの言葉を少しも理解できなくなる。
ただ欲望を満たすことだけが、
その人を支配するようになる。

だいたいの人はね、そんなところまで行かなくても、
よっぽど手前で、ガイドが引き戻してくれるの。
病気や事故や、トラブルは、そのために起きていることも多い。
目盛、行き過ぎてるから、修正しようね。って。

そんなガイドの働きかけにもまったく気付かないで、
どんどん進んでしまう人が、暗い暗い闇に、振り切ってしまう。
ひき戻ることもできない目盛のところまで。

そんなことになってしまうと、
時間の早さも、人生の濃さも、
そこに目盛がない人とは、まったく違うものになるみたいです。
何度もそのへんの目盛あたりに生まれて、
少しづつ少しづつ、何度も繰り返し、それでも学ぶしかないらしいです。
ガイドと繋がり薄いし、声が聞こえないから、
ものすごく効率悪い学びだろうけど。

でも、そんな彼らも、ただ、無知がゆえにそこにいる。
知らないから、学びに向かえないだけ。
ただそれだけなのだと、ガイドは教えてくれた。

次は、そのことについて書きたいと思います。

私と仲間は、以前、必要があって、
今まで私が知らないような、神の光も届かない
深い闇を知る学びを、学んでいました。

その内容というのは、
思い方をまちがえてうっかり暗いところにいるとか、
あまりに苦しい思いをしたから、ネガティブな思いに捉われているとか、
そういう理解しやすい闇ではなくて、

悪意を持って人を貶めたり、苦しめる。
さらには、人が苦しむ姿を見たいと思ってひどい事をする。
ついには、快楽として人の命を奪うくらいの、濃い闇が存在する。
存在するのはわかっていたけど、
自分とはあまりに遠い存在のようで、まったく理解できない。
悪意を持った手強い闇を知るレッスンをしていました。

そうでないと「結局そこまでしか解からないじゃないか」と
深く濃い闇を見てきたことがある人たちには、
心の底から信じてもらうことができないから。

このレッスンが始まる前、
ガイドとの繋がりを何度も何度も確認させられた。
一人では行ってはいけないから。
それから、仲間も伴って、一緒に学ぶんだと分かった。
一人では理解することは難しいから。

「結局は同じことだと分かるはずだ」とまず言われた。
だから、恐れることはないとも。
今までのやり方はちゃんと通じる。
つまり、
ただ気付けばいいのだということ。
甘受すること、認めること、寿ぐということが、大事なのだということ。
愛というものは光であること。

それから、最初に分かったこと。

愛を求める者はまだいい。
求めるものが愛ではないものが、更に深い闇に向かう。
それは快楽という欲望。
もっともっと強くと快楽を追う者が深い闇に落ち始める。

相手が苦しんでいても、自分の欲求を追及する、その正体はなに?
と問うと、ガイドは更に教えてくれた。

普通の人の心の中にも潜んでいるそれが、何かによって増幅する。
”それ”は誰の中にも蒔かれている闇の種。
闇の種を芽吹かせ、育むも”何か”の正体は、まず”快楽”。

快楽をほどほどに留めることができず、もっともっとと際限なく求める。
その仕組みの例は、こういうこと。

たとえば、太るまで食べるということも同じ仕組みで起こる。
その快楽をとめどなく感じたい、という感覚から始まる。
性行為も同じこと。金儲けも同じこと。
当たり前に普通に全ての人が持っている欲。
でも、際限なくどんどん求めることが、闇へ向かうこと。

めんどくさい、とか、怠惰に過ごすことも同じこと。
そんなほんのささいな気持ちから、
どんどん際限なく続けていくと、闇に振れて行ってしまう。
それが極に近づくほど、強い濃い闇になる。

ひとつの装置の中の、一方は光の極、一方は闇の極。
誰もがどちらにもまわすことの出来るこのつまみを持っている。
光も闇も、別の次元にあるのではなく、おなじ仕組みにある。

光に向かうも闇に向かうも同じつまみを回し行き着く。
つまみを動かす方向がちがうだけ。
どちらに動かすかということに過ぎない。
光も闇も、ひとつの装置の中に存在する。

闇の方向へばかりつまみを動かし続けると、
あるところから、ずっと真っ暗になり、
ひき戻ることも難しい暗闇の中に捉われてしまう。

しかし、光へばかりつまみを動かしても、像は見えなくなる。
コントラストが強くなって、違う場所に濃い闇が生まれることになる。
一度光で飛ばしすぎた画像は、もとの画像にもどらない。
人生をリセットしないと元に戻れないということみたい。
光へばかり回し過ぎてもいけないのです。

光だけでも像は見えない。闇だけでも像は見えない。
ちょうどいいところがある。
それぞれに人によって多少ポイントが違うが。
多くは光だけでも闇だけでもない、ちょうどいいポイントで像を結ぶ。

光へ向かいすぎても、コントラストが強まって、
濃い闇に転じるのだなと分かった。

やっぱり中庸、バランスが、とてもとても大事なのね。

と、ここまでが1ラウンドでした。

今までは誤解をまねきそうなので、
あえて避けてきたテーマなのですけど。
これはあくまでも私たちの見え方、考え方ということで
いわゆる”憑依”のことについて。
お話しちゃいます~。

人ごみや、ネガエネルギーの多いところで、
体やら首やらがどーんと重くなっちゃう、あれです。
動きたくなくなって、いろいろ支障があるよねー。
私も時々、くらっちゃいますが、
実はそれほど酷い方じゃないのです。
それは、学びが進んできた結果なのですが。
あれを、多くの人はものすごく怖がっていますよね。
まあ、しんどかったり、つらかったりするからねぇ。
それに得体が知れないから怖いのでよね。
でも、
それが元で死んじゃうのでは?
なんて心配しないで良いと私たちは思ってます。

「視える人へのメッセージ」として私のスピリットガイドが
伝えてきたことがあります。

「視えている人へは、このように言いなさい。
視えるということには、理由があるのです。

課題に取り組みなさい。
あなたのガイドと繋がりなさい。
魂の秘密を学び、生きる意味を学び、
光の道を歩むと決意することです。
決意すれば、おのずと用意されるでしょう。
あなたが学ぶことで、あなたの周りの魂もまた学びます。
あなたは船頭(先導)なのです。
船を漕ぎなさい。
多くの魂を乗せて、船を漕いでいきなさい。」

からだがない霊という存在は、
実は生きてからだがある霊(私たち)よりも、
意外といっぱい存在しているんです。
以前、http://cocoroncho.blog.shinobi.jp/Entry/14/ で
書きましたが、生きている私たちは幸運な存在なのね。
からだがない存在は、私たちの周りで、私たちと共に
そのままの状態で、学んでいたりします。
生きるということは、自分ひとりでなく、
他にも見えない存在に、自分の生き様を見せているのです。
ガイドはもちろん守ってくれていて、
ガイドが許しているからこそ、
そういう存在が、”同じ舟(課題)に乗っている”のです。
私たちが気付くことで、彼らも気付き、
ひょっとすると成仏して新たな体を得て生まれ変わる準備に入ったり、
まだまだ成仏するには学びが足りなくて、
更なる課題を体験するためべつの舟に移ったりする。

彼らも神様から見ると、同じ”学びの徒”でもあるわけ。
ちょっとくらい学びを共有しても、いいんじゃないかしらって、
私などは思うんです。

憑依体質というのは、そういう存在を感じやすい人なのだけど、
彼らは、「私たちを通し、一緒にいくつかの体験をし、
私たちがするスピリチュアルな話を聞き」たいのです。

これも、必要だから起こっているのですよね。
必要のないことはこの世に起こらないので。
実は、憑依されて、
苦しみ、欲を捨てられず、もだえている人たちの気持ちを、
一緒に味わい、理解することは、
それもまた、
生きている自分が、数ある課題の中から選んでいる課題なんです。

私たちはこれを”菩薩の学び”と呼んでいます。
霊的なボランティアだと思ってます。
情け深く優しい魂が、そしてそれを学ぶ必要がある人が、
そのような性質を備えているんだなぁと思ってます。

だから、菩薩の課題というわけです。

闇は怖がらずに。怖がるから怖いものになる。
怖がらない者には、怖い姿は見えず、
怖い仮面の内側の真実の姿を見せてくれます。

光と闇が共にあるからこそ、
この世界はこのように美しいのです。

それがこの課題で最終的に学ぶことじゃないかと
私は思っています。

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