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私をここまで呼んだのは、この神さまだったかーと
初めてその神さまのもとへ連れられて来られた時に分かったのでした。

bisi006.jpg

子供の頃から存在を感じていた神さまが、
その頃住んでいたところから、こんなにも離れた、
この場所から、ずっと私を呼んでいたなんて、
なんとも不思議な気持ちになりました。

その神さまは、島の先端の岬に鎮座している神さまです。
社などはありません。鳥居のむこうに石碑のようなものと石が置かれているだけ。
そのむこうには南の青い空が広がっていて、
その脇には、エメラルドグリーンの海が広がっています。
まるで、空や海が神さまそのものだと表しているようで、
私が感じてた神さまとぴったり同じだ。

私の神さまにりっぱな建物はない。
だけど自然そのもの。海と空と緑の姿。
やっぱり。と嬉しくなった。

主人は赤ん坊の頃、高熱で死にそうになり、
この神さまに命を預けて助かったそうです。
預けたといっても、預けました、と供物と共に置かれて
お祈りするだけだそうですが。
でもそれからは大病せず、ほんとに頑丈。今もとっても頑丈。
主人は岬の神さまの子供というわけです。

主人の家は初詣もここだし、
うちの息子が生まれた時も初参りはここでした。
今回も島に到着したその日まっさきにお参りにきました。
ご縁があるんですね。

そして石碑に刻まれたお名前には「龍」と「鑑」という文字がはいっていました。
私の星は「龍」で「鑑る(リーディング)」お仕事させていただいてますから、
その符合にもなるほど、やっぱり私の神さまなのだなーと納得。
「龍が鑑る嶽」の神さまだそうです。

この神さまは、「ゆたかさを与えてくれる」神さまとして祀られていました。
不作に苦しんでいた頃、大漁と豊作をもたらし生活が楽になったので、
信仰されてきたそうです。

最近のテーマのひとつです。「ゆたかさを受け取ること」
「生活を楽しむこと」これをテーマにみなさんにお話させていただくことが
増えているのも、ご縁なんだなーと思いました。

さて、島にいると、定期的に無性に
神さまのいる岬に行かなくては、という気持ちになります。

十五日の神さまとも呼ばれています。
旧暦の十五日に見つけられた神石がご本尊だからです。
これからは毎月15日には岬の神さまと対話するために
お参りに行くことになりそうです。

とはいえ、本当は、神さまとの絆に距離も時間も関係ないんですけどね。
いつも、つねにそばに存在を感じることができます。

昔、ここの神さまに通ったユタが島にもいたそうですが、
今はいないそうです。
それで呼ばれたかなー。島でのお役も回ってきそうです。

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以前にフィルターを新しく作成中だと書いたけれど、
そろそろ大詰めに入ってきたようです。
フィルターを作っている最中は、
言葉も出てこないし、リーディングもクリアでなくて、
なんていうか、オフラインで作業してて、
最新の情報を更新してない感じかしら。
そんな状態からは脱してきたようなこの頃。

それにしても、ちょっと時間かかりました。
どうしてこうも作成に難航したかというと、
とことん自分にしっくり合うフィルターを
探し続けていたからです。
サイズなどは言うに及ばず、
色や素材やデザインも、
すみずみまで好みのものを
詳しくカスタマイズしなくちゃいけなかったの。

去年(2006年)の終わりフィルターをはずしてからというもの、
「今度はお任せでなくて、自分で決めていいよ」
と言われ、はたと考えてしまった。
今までは、
ガイドの導くままに与えられるものを甘受するというやり方を
私は生まれてこの方ずっとしてきているので、
それが自分のお勉強になるなら、
ちょっとくらい自分の好きな色や形でなくても、
受け入れてきた。
それが自分のためになることを知っていたから。
それが、
そろそろ自分で好きなものをフルオーダーしてごらん。
あなたが望んだとおりにこしらえてあげるから。
と言われても、

そんなのわがままじゃない?贅沢じゃない?
ってモジモジしてみたり、
既製品を使うことに慣れていて、
でも、フィルターなしはけっこうしんどいので、
つい妥協したりしてしまいそうになって、
でも、一度既製品フィルターをはずしてしまったから、
同じようなものははめようとしても、気持ち悪くてだめ。
もう、好みじゃないものを我慢して使うのは嫌!
とはっきりと強く思う。
今度は妥協しちゃだめなんだ。
今度こそ、自分のセンスを表現しないと。
って、思い直して、

でも上手く想像できなくて、

参考にいろいろと見て回っても、
私のセンスじゃないものばかり目につく。
キンキラ成金チックも、デコデコフリルいっぱいも、
近未来的ツルツルボディも、
私の趣味じゃない。
こういうのがいいなーっていうのが、
ちっとも見当たらない。

今度は妥協はしたくないし、
させてもらえないことも分かっている。

だんだんと見えてきた。
これが私のフィルターと呼べるもの。
それは、私が素に戻ることでした。
自分の魂の芯に近づくという感じでした。
一番固い表側の殻が剥けたような感じ。

既成じゃない神様フィルターは
とても心地が良いです。

居心地に悪さが少しもない。
恐れとか、心配とか、
自分が神様からの期待に見合ってないのではないか
なんていう、ものがまったくなく、
私はありのままの私でいていい。

そういうことでした。
ちなみに、キラキラでもピカピカでも、フリフリでもない
私のフィルターは、天然木みたいな素材で、
色で言うならアースカラー。
茶とか灰色とか濃い緑とか小豆色ね。
ちょっと渋いけど、そこが味わいある。
鮮やかで奇抜じゃないけど、
穏やかで、居心地が良い。


以前、フィルターをはずして感じるようにしてみると、
書いたことがあるのだけど、
その続きを書いてみたいと思います。

神様フィルターは、大元のサムシンググレイトは同じでも、
たとえば
仏さま、神社の神様、イエス様、マリア様、シヴァ神・・・・と
それぞれに色付けされたフィルターを通して、
多くの人が自分と縁のある神様の形で見ている、
というお話しましたが、

そのフィルターをはずしたら?

私には、大きな光、ひたすらすべての根源の光のように感じられた。

なんていうか、細かい作業が、てんでしにくい。
ははぁ、なるほど、それでフィルターが必要なんだなって理解した。
フィルターってのは、キーボードがちゃんとあって、
既存のアプリケーションがちゃんと入っていて、
このコマンドを打ち込めば、動き出す、
というように、すぐさま使える便利なものなのね。
前世とかそのほかのリーディングは
そのアプリケーションの付属のツールみたいなもので、
フィルターなしというのは、
そこらへんも読み解きにくくなるんだわ。
フィルターなしってけっこう不便。

でも、一度はずしてしまったフィルターは、
どうやら、もうつけられないの。
微妙にサイズが変わった感じでね。

で、自分でフィルターをカスタマイズすることにしました。
新たな神様と結縁するっていうことに近いですけどね。

フィルターをはずしても、
導かれている、守られていることは感じている。
ちょっと言葉が通じない感じなだけでね。

その存在をもっと感じてみると、
その存在は、光の塊、太陽のようだと思った。
そうだ。子供の頃に感じた存在と同じじゃないかと思い出した。

空の彼方に感じた存在。
光を放って、導いて、守ってくれている、
その存在は、確かに、その頃、名前も形もなかった。

”太陽の娘”と呼びかけられたことがあったことも思い出した。
”あなたは太陽の娘なのだから、
恐れるな、ただ輝いていればいいのだ”と。
むかーしにそうメッセージをもらったことがあったっけ。
そうならば、私の神様は”太陽”てことかな。
それをもとのイメージとして、
誰かが作ったフィルターではなく、
自分が感じるそのままの神様を
認識してみようとしています。

そうして、私は、新しいフィルター作成中。

今のところ、
なんだか言葉が原始人みたいなの~。
気持ちもとってもプリミティブ~。

繊細ではなくなった感じ・・・。
でも、自分そのものな感じがして、
とても楽なんだけどね。
フィルターを換えるというのは、
私も変わるってことなのね。

新しいフィルターはどんなことになるのやら・・・。

私がみえているもの、感じていることを、
そのまま言葉で表現するということはとても難しい。
その言葉を読んで、それでまた解かってもらうなんて、
そのうちの何%だろうか?なんて、思ってました。

そのうえ、最近よく感じることは、
私が見えているものさえ、”私というフィルター”で、
色つけられ、加工されて、私ナイズされて、表現されているもの。

「神」と人が言う、その存在も、そのイメージは人それぞれ。
私がガイドと呼び、精霊と呼び、人が守護霊と天使と呼ぶ存在もまた、
それぞれのフィルターを通って、形や色が与えられたものなんだって。
でもね、フィルターを通る、”その存在”はあると思うの。
神のような存在、精霊のような存在・・・・。
それを呼んでいるのは、私たち。
それは答えてくれる。

多くの友人と、日記をアップするとシンクロしてるとか、
それぞれにその人のフィルターがあることを感じさせてくれる。
みんなそれぞれに自分のフィルターを使って、
その存在からのメッセージを表現してる。

私はそれでオッケーなんじゃないの?って思う。
宗教とか、何かに属して学ばなくても、
それぞれがそれぞれのフィルターで”その存在”と接続して、
それぞれのテイストで、絵の具で、キャンバスで表現し、
シェアしあって学んでいく、
認め合って、学び合ってゆく。

みんながみんな、”その存在”の媒体であっても、
それがそういうツールであったとしても、
それでいいんじゃないかしら。

どれかが正しくて、どれかはまちがっているなんて、
そんなこと言う時代じゃーないんじゃないかなーって。

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