[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私がみえているもの、感じていることを、
そのまま言葉で表現するということはとても難しい。
その言葉を読んで、それでまた解かってもらうなんて、
そのうちの何%だろうか?なんて、思ってました。
そのうえ、最近よく感じることは、
私が見えているものさえ、”私というフィルター”で、
色つけられ、加工されて、私ナイズされて、表現されているもの。
「神」と人が言う、その存在も、そのイメージは人それぞれ。
私がガイドと呼び、精霊と呼び、人が守護霊と天使と呼ぶ存在もまた、
それぞれのフィルターを通って、形や色が与えられたものなんだって。
でもね、フィルターを通る、”その存在”はあると思うの。
神のような存在、精霊のような存在・・・・。
それを呼んでいるのは、私たち。
それは答えてくれる。
多くの友人と、日記をアップするとシンクロしてるとか、
それぞれにその人のフィルターがあることを感じさせてくれる。
みんなそれぞれに自分のフィルターを使って、
その存在からのメッセージを表現してる。
私はそれでオッケーなんじゃないの?って思う。
宗教とか、何かに属して学ばなくても、
それぞれがそれぞれのフィルターで”その存在”と接続して、
それぞれのテイストで、絵の具で、キャンバスで表現し、
シェアしあって学んでいく、
認め合って、学び合ってゆく。
みんながみんな、”その存在”の媒体であっても、
それがそういうツールであったとしても、
それでいいんじゃないかしら。
どれかが正しくて、どれかはまちがっているなんて、
そんなこと言う時代じゃーないんじゃないかなーって。