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”愛が足りない”というメッセージは、実はことあるごとに受け取っていました。

最初に受け取ったのは、
私が最初の結婚でDVを受けている最中でした。
その時、私は神さまや精霊たちとは、シャットダウンの状態でした。
それでも、時々、忘れかけていた友からの手紙のように、
メッセージやサインをもらっていた。
補足なしなので、消化できないことも多くて、
この時も、最初、このメッセージを素直に理解することも、実践することも出来なかった。
私にはこれ以上出来ない!これ以上愛なんてどこからも出ない!
という、自分の叫びの方が強かったのです。

それでも、もらったメッセージについて考えてみた。
そこに答えがあるというのは分かっていたから。

この時の生活を体験したことで、
暴力をふるう人について、よく分かったことがある。
怖れているのだ。自分を否定されること。認められないこと。
こんな自分でも受け止めて愛してくれと訴えている。
本当の愛を受けずに育ってきたから、愛が枯渇しているのだ。
愛が足りなかった結果のひとつなのだ、と。

自分についても考えてみた。
私も愛を求めていたのだ。(つまり、私も足りてなかったということね)

私は虐待も放置もされてはこなかった。
義理の母が、ちゃんと育ててくれた。
でも、どこかに「ちゃんと育てなければいけない」、
という義務感があるのを感じていた。
そして、実の両親からは見捨てられた、愛されていないと感じていた。
どこかにいつも、寂しさを感じていたのは、そこから来ていると思う。

気狂いになるほど(暴力を振るって姿はまさにそう)愛を求める人に、
自分のすべてを捧げるほどの愛を与えれば、
私も愛してもらえるのではないかと思っていたのではないだろうか?

唯一連絡をとっていたリーディングのできる友人に言われた。
あなたはいつも、自分を後回しにしている。
自分をまず大事にしなさい。それからでしょ。と。

そういえば、弟が未熟児生まれの弱視で、体が弱く手がかかり、
”ものわかりのいい子”だった私は、自然と自分は後回しでもいいという癖がついている。
それに父親はいつも自分を優先にして、子供のことはあまり考えない人だった。
義理の母も、そんな父を結局は許して、父を優先するというスタンスをいつも取っていた。

人を助けたい、救いたいと思う人は、
本当は自分が助かりたい、救われたい気持があるのだ。とも言われた。

私はまずそこを認めなければならなかった。
私の愛は、自分が愛されるための手段ではなかったか?

自分を認めず、尊重できず、愛せないままでは
人を助けることも、相手を満たすほど愛を注ぐことも出来ないのだ。
順番を間違えていた。

自分の器に愛のエネルギーが満たされていなければ、
愛を与えることなんて、出来ない。
この時は、「愛が足りない」という言葉は、自分に向けての言葉だったのだ。

最初の”愛が足りない”というメッセージを受けて、
私は自分への愛を満たすことを始めることにした。
自分を大事にすること。自分を認め、尊重すること。
それは、自分以外の人を切り捨てることだろうか?
私は人としての義務を果たさないことになるのだろうか?
と、悩んだけれど、
このままでは、自分自身がダメになってしまう。
自分がおかしくなってしまう。
自分への愛を満たすことが最優先でした。

勇気を出して、自分を愛し始めた私は、
再び、神さまや精霊たちと繋がることが出来るようになったのです。

愛の形は様々で、すべての人が同じ行程をたどるとも思えない。
けれど、もし”愛が足りない”というメッセージを受けて、苦しく感じた人は、
自分自身の器に愛が足りていないのでは?と
まず考えてみてください。

精霊が、「特に幼子は」と言及したことも、意味があります。

誰よりも愛し癒さなければいけないのは、
自分のインナーチャイルドかもしれません。

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