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毎日棚卸ししていると書きましたが、
今日の棚卸しは重かったです。

ことの発端は数日前のことでしたが、
自分よりもある箇所が優れている人を見て、
他の部分では自分が優れているところもあるのに、
そこはたいしたことないように感じて、
自分が劣っていることがいつにもなく
とてもとても、気になり、気が沈む感じで、
直接批判させているわけじゃないのに、
急にだれかれも自分のやり方や、自分のあり方まで
すべてを批判しているような気がして、
自分が決めなければいけないことも、
自信が無くて、まったく決められないのです。
これは私には珍しく、程度がひどくて、ちょっと
自分で自己嫌悪に陥るほどでした。

棚卸しと分かってなければ、
きっともっと落ち込んでいただろうなぁ。
今までの全部がまちがっているような気がして。

でも、ちょっとひどいので、どうしたもんかと考えて、
私も自分のことは自分だけでは間に合わないことも
ある時は友人に聞いてもらいます。
やはりシェアすることは大事だということも確認しました。
友人にメールした瞬間、分かったことがありました。
否定しない、分かってもらえると思える誰かに
伝えるというのがポイントなんですね。

で、分かったことというのが、
「結局、自分の本質を受け入れてもらえない。
私には自分の居場所はないんだ。」
っていう、うらみに似た思いが自分の無意識にあること。
それで、今度こそ受け入れてもらえそうだ、
今度こそ自分をありのまま出せる、という段になると、
急に居心地が悪くなる何かが起こるんだと分かった。
自分の無意識を反映して、勝手に起こるんですね。

これは今生では、
実の親に捨てられて居場所がないと思ったことが発端で、
その後、何度も何度も転校した小学生時代のこと、
やっと巡りあったと思った前世の母で、
先生のもとからももうひとりの分け御霊がいるから、
自分の居場所ではないと感じて離れたこと、
前回の結婚生活も同じことで、
いつも最初は、今度こそ、ここかもしれないと思うのに、
途中から批判されてないのに批判を感じ、
それが苦になり、結局、受け入れられないのだと感じ、
ずっと、ここは自分の居場所ではないと思って、
生きてきたんだなーって確認した。
ずっと未来や、他の場所に、自分の居場所があると
希望を持つことで耐えてきたんだなって確認した。

いくつかの前世も、同じことで、
ひととこにいられず旅に明け暮れたりしてた。
自分の中に根深くある思いに、ちょっと涙してみた。

でもこれは、今を、ここにいることを
そのまま受け入れ、精一杯生きていないということなんだって気付いた。
今ここにいることこそ、一番大事なことなのに。
ここに集中できてなかったんだなーって。

子供時代のつらい時は、つらすぎたんだよね。
しょうがなかった。今までしょうがなかった。
それは自分に許そう。
でも、もう私は大丈夫だから、
今を、ここにいることを、ちゃんと生きることが出来る。
未来に希望を繋いでやり過ごさなくていい。
私は自分のありのままでも、今ちゃんと受け入れられる。
今ここで、ちゃんとすべてのエネルギーを受け取ることができる。
先に延ばさなくていい。
私はもう、くり返したくないと思っている。
もっと強く、もっと懐深くなりたいと思ってる。
それには、自分が今をここを生きなきゃ。
そう思ったら、すっきりしてきた。
自分で決まられるし、私は誰かと比べなくても、
私のやり方で、やっぱりいい。

今日の棚卸しでした。
なんだか、すごく重い荷物が整理できたぞー。

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ひとつ気付いたと思うと、それについて
揺るがないレッスンがやってきます。
いやぁ、人生それの連続だっけ。
それも確認。

一番痛いところを、絶妙に突いてくるよね。
なんどもなんども、
おまえはたれぞ?と問われ、
じぶんはこうなのだと、確認させられる。

あちらこちらから、揺さぶりをかけられて、
どこから何がぶつかっても転ばないように、
強化されているようだー。
筋肉って言うのは、反復トレーニングを繰り返して、
やっと力が付くものなのだからして。
精神力もまた同じこと。
何度も屈伸する必要があるのね。

痛いところをちょんと突かれ、
痛いという感覚を思い出させられる。
まだこんなところが痛いのだと、気付かされる。
痛みの点を押されると、
人は混乱し、不安になる。
それから、自分を守ろうと、
ヒステリックになり、攻撃的にさえなる。
混乱がおさまり、痛みのもとを見て、
大した事ないのだと気付く。
そうだった。なにも怖がることはないのだと、
思い出すと、痛みもおさまっている。
そうかぁ。それを思い出すために、
突つかれてんだな。私。

怪我が治っても、神経が痛みを記憶して、
きれいに治っていて、痛みの元がないのに、
いつまでも痛いというサインだけ送り続けて、
痛みを感じることがあるのだと、
聞いたことがあります。

体だけじゃなくて、
心も時々、そんなことになっている。

何度も何度も、
もう怪我治っている、痛くないんだって、
確認しないと、痛みが消えないのね。

そんな屈伸運動を、時々しています。
心の柔軟も、時々運動して保たないといけないのね。

 

人々は闇へつまみを回し、闇にとどまり、
逆にただ光を求め、求めすぎて、闇を生み、
闇のほうへ、光のほうへ、
揺れながら、少しづつ、少しづつ、
はっきりと像が見えるポイントを探している。
でも、なんでそんなに、行ったり来たりする?
なぜそんなにあっちこっちにつまみを回してしまうのか?と
ガイドに問うたところ、
返ってきた答えは「ただただ知らないだけ」。

例えば、私は目の前に問題が起こった時、
それがなぜ起こったのか?
私に何を気付かせるために起こったのか?
まず考える。それを「課題に取り組む」と言っている。
考えて、分からないことは、
ヒントを教えて、と、頼み、
またもたらされた出来事や言葉を、
照らし合わせ、考える。
時にはヒントが来るまで時間がかかることもある。
目の前にあるヒントに気付けないこともある。
でも、ヒントは必ずもらえる。
パズルがピタッと合って、
なるほどそういうわけかー!
と気付いた時、問題は解消される。
解消されないってことは、
課題の的を得ていないんだわね。
的を得たときに、その課題は終了する。
すっきり明瞭に世界はクリアに見えるようになる。

ただ課題が出された時、
それはたいてい、しんどいこと、嫌なこと、苦しいことなので、
「えーーー?!そんなん絶対嫌ーーーー!」と
まず最初に反応することが多い。私も。
ただ私はそれでも、それに向き合い取り組むことしか、
今起こっている問題が解消されることはないことを知っているから。
嫌々ながらでも、気持ちをコントロールしながら、
その嫌ーなことを目の前に置いて見る。
それをしないで、嫌ーーな気持ちで課題に逆らう時、
実は、目盛りがぎゅーっと闇に動くことになる。
嫌ーーーって気持ちで課題から目を逸らし、
課題から逃げる気持ちが、つまみを回すのです。

課題は普通いくつもあって、
つまり、ひとりでいくつもつまみを持っているのね。
つまみはひとつじゃないの。
人生はきっと人が思っているよりも
ずっと立体的に、陰影を作っている。

あの部分は白く、この部分は黒い、
そしてここはグレイみたいにね。
斑になっていることもある。

すべての像が美しくくっきりとすっきりと
見えるようになるには、
たくさんの課題をひとつひとつこなしていけば、
だんだんと自然にそうなっていく。
ただそれだけで、いいんです。
そして、課題をこなすってことは、
ただただ気付けばいいだけ。
分からなかったら、ヒントプリーズすればいいし、
そんなに難しい大変なことじゃない。

実はとてもシンプルなことなんです。
そして、それが生きるってこと。
生きるって、シンプルなこと。

それを、ただただ知らなかっただけ。

闇に囚われ、人々を支配し搾取しようとする
闇に住んでいる人たちのことを考えていたら、
ガイドは彼らの心を見せてくれた。
それは、宮殿のようなところで暮らして、
贅沢なものに囲まれているのに、
その魂は、暗く冷たく小さな箱の中に篭められて、
その中でひとりうずくまっているようでした。
彼らは、気付かない、考えない、向き合わない。
それが、唯一のそこから出られる方法であることを知らないから。
そこから出る事を怖がってさえいるようでした。
闇にいる方が安全だと思っているのだね。
囚われているのに。安全だと思う。

ほんとうに、ただ知らないからなんだあって、
思いました。

深い闇について、といっても、
学びの方法は、ガイドがちょうどいい情報を、
いつも目の前に置いてくれるので、
それを受け取り、それについて考えていると、
そのうち答えをくれる、という、いつものやり方と同じです。
差し出される情報が、エグかったり、グロかったり、
気分悪かったりするだけかな。
やはりそれほどやり方が変わるわけではありませんでした。

仲間も同じように学び、持ち寄って、シェアし合います。
もちろん、シンクロしていて、同じようなものを
別の角度から見たというような話を、
パズルのピースを合わせる様に、持ち寄って組み合わせる。
そんな作業なので、恐ろしい修行とかしてるわけじゃないです。

ただそんな話をしていると、
そんな類のものが寄ってきてしまうので、
多少、しんどい思いはする。
闇に影響されず、淡々と読み解くことが必要なだけ。
そういうレッスンでもあったかもしれません。
この学びは、気持ちが安定していないと、ちょっとつらいかな。

話を聞かされるだけで、気分が悪くなると思うので、
詳細は書かないことにしますが、
人間て、ほんとにひどいことしちゃうなぁって、
しばらく、げんなりするような話が集まってきてました。

そんなわけで、今回は闇の源についての話。

いくつかは、過去生の話で、
土地に染み付く恨みのような怨念が、
また悲惨なことを呼んで、
さらにその場所に重なり集まるのだけど、
もともとを辿っていくと、
古代の儀式、人柱、だったりして。
時の支配者が、民衆を支配するために、
もっとも弱い階層の者を、いけにえに、
生きたまま埋めた。
それが土地を汚した始まりだったと、
ガイドがビジョンを見せて、教えてくれた。

サイキックな力があるゆえに、
人々を扇動するからという理由で、
磔で殺されたというある人の過去世のビジョンからは、
なぜ殺されなければならなかったかを知る必要があると言われた。
その理由は、人々を支配しようとする者が、
人の血を流すことで、人を治めようとしたのだ。

人柱にしても、磔にしても、
その殺され方は見せしめだから、凄惨でむごい。
本人であったら、あまりに苦しみに、
何世にも渡って、その闇に苦しむことになる。
けれど、生まれ変われる人はまだ幸いなのだろうと思う。
そのまま、その場所に苦しい念のまま
染み付いてしまった人も多いだろう。

染み付いてしまった闇は、更なる闇を呼ぶ。
あまりに苦しみから、仲間を増やそうとする。
それが、恐ろしい魔物だといわれ、忌み嫌われる。
でも、彼らは、それほど罪深くはない。
彼らを生み出したのは、彼らをそのような目に合わせた者たち。
人々を支配し、搾取し、いくら満たしても満足できない欲望を満たそうとする。
際限のない欲望。それこそが、もっとも深い闇の源。

けれど、支配しようとする人間だって、もともとは同じ人間。
だいぶ”つまみ”を闇の極まで回し続けた人だけど。

闇の極に振れれば振れるほど、
ガイドとの繋がりを感じられなくなる。
それは、想像力、感性を失くすことと同じ。
どんどん想像できなくなる。
どんどん感じられなくなる。
ガイドの言葉を少しも理解できなくなる。
ただ欲望を満たすことだけが、
その人を支配するようになる。

だいたいの人はね、そんなところまで行かなくても、
よっぽど手前で、ガイドが引き戻してくれるの。
病気や事故や、トラブルは、そのために起きていることも多い。
目盛、行き過ぎてるから、修正しようね。って。

そんなガイドの働きかけにもまったく気付かないで、
どんどん進んでしまう人が、暗い暗い闇に、振り切ってしまう。
ひき戻ることもできない目盛のところまで。

そんなことになってしまうと、
時間の早さも、人生の濃さも、
そこに目盛がない人とは、まったく違うものになるみたいです。
何度もそのへんの目盛あたりに生まれて、
少しづつ少しづつ、何度も繰り返し、それでも学ぶしかないらしいです。
ガイドと繋がり薄いし、声が聞こえないから、
ものすごく効率悪い学びだろうけど。

でも、そんな彼らも、ただ、無知がゆえにそこにいる。
知らないから、学びに向かえないだけ。
ただそれだけなのだと、ガイドは教えてくれた。

次は、そのことについて書きたいと思います。

私と仲間は、以前、必要があって、
今まで私が知らないような、神の光も届かない
深い闇を知る学びを、学んでいました。

その内容というのは、
思い方をまちがえてうっかり暗いところにいるとか、
あまりに苦しい思いをしたから、ネガティブな思いに捉われているとか、
そういう理解しやすい闇ではなくて、

悪意を持って人を貶めたり、苦しめる。
さらには、人が苦しむ姿を見たいと思ってひどい事をする。
ついには、快楽として人の命を奪うくらいの、濃い闇が存在する。
存在するのはわかっていたけど、
自分とはあまりに遠い存在のようで、まったく理解できない。
悪意を持った手強い闇を知るレッスンをしていました。

そうでないと「結局そこまでしか解からないじゃないか」と
深く濃い闇を見てきたことがある人たちには、
心の底から信じてもらうことができないから。

このレッスンが始まる前、
ガイドとの繋がりを何度も何度も確認させられた。
一人では行ってはいけないから。
それから、仲間も伴って、一緒に学ぶんだと分かった。
一人では理解することは難しいから。

「結局は同じことだと分かるはずだ」とまず言われた。
だから、恐れることはないとも。
今までのやり方はちゃんと通じる。
つまり、
ただ気付けばいいのだということ。
甘受すること、認めること、寿ぐということが、大事なのだということ。
愛というものは光であること。

それから、最初に分かったこと。

愛を求める者はまだいい。
求めるものが愛ではないものが、更に深い闇に向かう。
それは快楽という欲望。
もっともっと強くと快楽を追う者が深い闇に落ち始める。

相手が苦しんでいても、自分の欲求を追及する、その正体はなに?
と問うと、ガイドは更に教えてくれた。

普通の人の心の中にも潜んでいるそれが、何かによって増幅する。
”それ”は誰の中にも蒔かれている闇の種。
闇の種を芽吹かせ、育むも”何か”の正体は、まず”快楽”。

快楽をほどほどに留めることができず、もっともっとと際限なく求める。
その仕組みの例は、こういうこと。

たとえば、太るまで食べるということも同じ仕組みで起こる。
その快楽をとめどなく感じたい、という感覚から始まる。
性行為も同じこと。金儲けも同じこと。
当たり前に普通に全ての人が持っている欲。
でも、際限なくどんどん求めることが、闇へ向かうこと。

めんどくさい、とか、怠惰に過ごすことも同じこと。
そんなほんのささいな気持ちから、
どんどん際限なく続けていくと、闇に振れて行ってしまう。
それが極に近づくほど、強い濃い闇になる。

ひとつの装置の中の、一方は光の極、一方は闇の極。
誰もがどちらにもまわすことの出来るこのつまみを持っている。
光も闇も、別の次元にあるのではなく、おなじ仕組みにある。

光に向かうも闇に向かうも同じつまみを回し行き着く。
つまみを動かす方向がちがうだけ。
どちらに動かすかということに過ぎない。
光も闇も、ひとつの装置の中に存在する。

闇の方向へばかりつまみを動かし続けると、
あるところから、ずっと真っ暗になり、
ひき戻ることも難しい暗闇の中に捉われてしまう。

しかし、光へばかりつまみを動かしても、像は見えなくなる。
コントラストが強くなって、違う場所に濃い闇が生まれることになる。
一度光で飛ばしすぎた画像は、もとの画像にもどらない。
人生をリセットしないと元に戻れないということみたい。
光へばかり回し過ぎてもいけないのです。

光だけでも像は見えない。闇だけでも像は見えない。
ちょうどいいところがある。
それぞれに人によって多少ポイントが違うが。
多くは光だけでも闇だけでもない、ちょうどいいポイントで像を結ぶ。

光へ向かいすぎても、コントラストが強まって、
濃い闇に転じるのだなと分かった。

やっぱり中庸、バランスが、とてもとても大事なのね。

と、ここまでが1ラウンドでした。

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