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シフトチェンジプロセス中のことですが、
そろそろいいだろうと思っている課題がなかなか終わらなくて、
ちょっと後ろ向きになっていることがありました。
”揺るがないレッスン”を”隅々までレッスン”してるのに、
トンネルを抜ける感じが全然しない・・・。
あーーーまだ何か足らないとですぁーーー?
って、またしても停滞ぎみだったので、sinちゃんとも
業務報告しあったり、話し合ったりしてたんですが、
どうも、もっともっとこだわって、突っ込んで、
「物質に愛を持ってやらないといかん」じゃないのか?
「変態な程に愛着を持たないといかん」じゃないか?
という話になったのですが、
それを聞いた瞬間、
なんだかすごーく何もかも嫌になって、全部やりたくなくなった。
私だって、そういうことあります。

私はもともと、こだわりが少なくて、固執しないというか、
根性がないともいうけど、切り換えが早いとも言えるけど、
諦めが早いというか、淡白で、手放しが得意なので、
反対の「物ごとにこだわる」の、実は苦手です。
「ほどほど」とか、「だいたいまとめる」とかは得意だけど、
「徹底的に作りこむ」とか「ディティールにこだわる」とか、
実はあんまり重きを置いたことがない。
途中でこれ以上はどうでもいいなーと思うことが多い。
でも、これじゃ、物作りする人間としてはどうかと思うし、
私が憧れる人というのは、こだわって物を作り、
こだわって創造的生活をしてる人だから、
これじゃー憧れの生活はできんと、”がんばって”こだわってきた。
もうちょっといける、まだまだだー、って、
手放しそうな自分に声かけて。
いろんなことにね。

だけど、天然のこだわりの人の声を聞くと、
まったくまだまだ”足りない”自分を感じ、
というか、もともと私にはないもんじゃん。
ない袖は振れん、っていう気さえしてきた。
物事にこだわることが、急に、変態的に思えてきて、
まるで、
着古してぼろぼろに汚れた服をもう一度着ろと
言われている気分になった。
もしくは、
セックスするならSMまでやろうって言われている気分。
ぜーってい、嫌。
それなら、服は着ない。それならセックスなんてするもんか。
って真逆に走りたくなる気持ちになりました。
物作りをやめるか、変態になって続けるか?
二者択一迫られている気分になったです。
極端ですけどねー。
人によって感覚がこんなにもちがうことを
まざまざと感じました。
なんですかねー。
いつもたいていのことが、「たいしたことじゃない」
「深刻にならない」「テーゲーでいいさー」な私が、
どうしても嫌!って感情が手放せなくなった。

「こだわる」というエネルギーは、
ある面から見ると、重くて暗くて荒いのです。
私のエネルギーはどっちかってと、
軽くて明るくて細かいので、
自分の性質にはちょっと遠い。
もちろんこれもバランスで、
なんでも、軽く明るく細かいのがいいわけじゃないのは、
知っているので、バランスとれってことなんだな?って分かってはいるのよ。
それもまた良いのよって思えるようにならなくちゃいけないんだ。
それが私の次のレッスンなんだって分かっているんだけど、
受け入れがたくて、何もかも放棄して3日くらい、
映画や本や漫画や、昼寝三昧して過ごした。

ところで、私はあんまり蛾ちゃんになじみはない。
そういう波長になってるから、
グロいもの、クロいもの、エグいものの類は、
あんまり目に入らないようになってる。
あっても近くで存在を感じることは、ほとんどない。

でも、この日は、
本屋からの帰り道、蛾ちゃんが車のウィンドウに飛びついて、
私の目の前でガラス越しに、バタバタと留まっている。
蛾ちゃんはつかのまお腹を見せて、飛んでいった。
私は常日頃は蝶々に寿がれることは多いけど、
たまには蛾ちゃんのお腹も愛でろってことか。
ちょっとの間でいいからってことか。
って、メッセージを解釈した。
お花の世話をすれば、ダンゴ虫がうじゃうじゃいるし、
ごみ捨てに行けばカラスが近くまでやってきてカーカー鳴いてるし、
ついでにけっこうすごい”おたく”の話をTVで見た。
ははーん。
変態も認めろって言ってやがるなー。(失礼、口が悪いわねホホホ)
って、メッセージはもらいながら、でもまだ、
受け入れがたい感情を手放せなくて、うだうだしてた。

四日目。昨日ですが、
毛遊びというイベントがありまして。
沖縄の音楽やエイサーを見ながら、
沖縄の屋台料理屋や物産市を楽しむイベントです。
毎年家族で遊びに行きます。
ここには、遊び仲間がいっぱい集まる。
会場を歩いていると、観客にも出演者にも知り合いばっかり。
久しぶりに会う仲間と飲んで食べて、
最後はみんなでカチャーシー(踊り)して、楽しかった~。
イベントで盛り上がって、
そこで会った10人くらいがそのままうちに来て、
夜まで宴会してました。

久しぶりに会ったけど、会っていない間、
いろいろあって元気を失くしていたらしい数人には、
会って話して、思い切り笑って、唄聴かせて、
たっぷり元気になって帰ってもらった。

そうなんだなー。
生きているって、毒が出ちゃうこともあるんだよねー。
今回は、私も毒も出たかなー。変態は嫌って毒。
課題は人それぞれだけど、
蛾ちゃんみたいにバタバタすることもある。
グロもクロもエグイのも、また大事な要素よね。
分かった。これ。
やっぱり「すべてを受け入れる」の揺るがないレッスンだったか。
そうかー。なんで忘れちゃうかねー。まだ沁みてなかったのね。
「分かった。すべてを受け入れます。」
って、なぜか思わず手を合わせて呟いたとたん、
白い光が合わせた手のひらから閃いて広がった。
あ、そゆことなのね。このレッスンこれが答えだったんだ。
私が受け入れた瞬間に終わったんだ。

あー。もう。ほんと学びにキリはないね。
分かっているけど、実践しきれていないことを、
隅々まで徹底的にやるんだね。
生きるって、そゆことなのね。ほんと。

 

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毎日棚卸ししていると書きましたが、
今日の棚卸しは重かったです。

ことの発端は数日前のことでしたが、
自分よりもある箇所が優れている人を見て、
他の部分では自分が優れているところもあるのに、
そこはたいしたことないように感じて、
自分が劣っていることがいつにもなく
とてもとても、気になり、気が沈む感じで、
直接批判させているわけじゃないのに、
急にだれかれも自分のやり方や、自分のあり方まで
すべてを批判しているような気がして、
自分が決めなければいけないことも、
自信が無くて、まったく決められないのです。
これは私には珍しく、程度がひどくて、ちょっと
自分で自己嫌悪に陥るほどでした。

棚卸しと分かってなければ、
きっともっと落ち込んでいただろうなぁ。
今までの全部がまちがっているような気がして。

でも、ちょっとひどいので、どうしたもんかと考えて、
私も自分のことは自分だけでは間に合わないことも
ある時は友人に聞いてもらいます。
やはりシェアすることは大事だということも確認しました。
友人にメールした瞬間、分かったことがありました。
否定しない、分かってもらえると思える誰かに
伝えるというのがポイントなんですね。

で、分かったことというのが、
「結局、自分の本質を受け入れてもらえない。
私には自分の居場所はないんだ。」
っていう、うらみに似た思いが自分の無意識にあること。
それで、今度こそ受け入れてもらえそうだ、
今度こそ自分をありのまま出せる、という段になると、
急に居心地が悪くなる何かが起こるんだと分かった。
自分の無意識を反映して、勝手に起こるんですね。

これは今生では、
実の親に捨てられて居場所がないと思ったことが発端で、
その後、何度も何度も転校した小学生時代のこと、
やっと巡りあったと思った前世の母で、
先生のもとからももうひとりの分け御霊がいるから、
自分の居場所ではないと感じて離れたこと、
前回の結婚生活も同じことで、
いつも最初は、今度こそ、ここかもしれないと思うのに、
途中から批判されてないのに批判を感じ、
それが苦になり、結局、受け入れられないのだと感じ、
ずっと、ここは自分の居場所ではないと思って、
生きてきたんだなーって確認した。
ずっと未来や、他の場所に、自分の居場所があると
希望を持つことで耐えてきたんだなって確認した。

いくつかの前世も、同じことで、
ひととこにいられず旅に明け暮れたりしてた。
自分の中に根深くある思いに、ちょっと涙してみた。

でもこれは、今を、ここにいることを
そのまま受け入れ、精一杯生きていないということなんだって気付いた。
今ここにいることこそ、一番大事なことなのに。
ここに集中できてなかったんだなーって。

子供時代のつらい時は、つらすぎたんだよね。
しょうがなかった。今までしょうがなかった。
それは自分に許そう。
でも、もう私は大丈夫だから、
今を、ここにいることを、ちゃんと生きることが出来る。
未来に希望を繋いでやり過ごさなくていい。
私は自分のありのままでも、今ちゃんと受け入れられる。
今ここで、ちゃんとすべてのエネルギーを受け取ることができる。
先に延ばさなくていい。
私はもう、くり返したくないと思っている。
もっと強く、もっと懐深くなりたいと思ってる。
それには、自分が今をここを生きなきゃ。
そう思ったら、すっきりしてきた。
自分で決まられるし、私は誰かと比べなくても、
私のやり方で、やっぱりいい。

今日の棚卸しでした。
なんだか、すごく重い荷物が整理できたぞー。

「世界は私の味方」と、ことあるごとに
唱えて、確認しています。毎日。
揺るがないレッスンも毎日のように。
で、気付いたら、変わっている。
何が一番変わっているかというと、
主人との関係です。

文句言いで、小言の多い、
辛辣な批判家の、我が家のジャイアンと、
つきあうこと、約8年・・・・。
うるさい小言も気にしないで、流して、
変わらずそばにいて、
できるだけ一緒にことに挑み、
どんな時も離れないと安心させることで、
うちのジャイアンは、変わってきていた。
変わったねー。別人のようだねーって、
昔を知っている人は言うのです。
今は、子煩悩で、外に飲みに行かず、
家族単位で行動し、
以前よりはずっと怒らず、対応してくれるし、
いろんな話を、私相手にする。
仕事の話、将来の話、
子供の話、政治の話も。
仲間で理解者で、味方にかわりつつある。
ほんとに。
自分が変わると、相手が変わるの、
顕著な症例を自分とだんなで体感しちゃった。

どんな風に変えていったかっていうと、
実はだんなでなくて、自分の意識を変えること。

先々週の日曜日は、友人宅に子供と遊びに行って、
車の鍵をありえないところで車内に落としたまま、
あ~・・と思っているまにパタンと閉まって、
インロックしちゃいました・・・。がっくりした。
時々、そんなこと、やっちゃうんだ。
それもスローモーションのように、動いてやっちゃうの。
手を尽くしたけど、自分ではどうにも出来なくて、
仕方なく、だんなに電話した。
実は今まで二回ほど同じことして、
ものすごーく怒られて、嫌み言われて、
こういう時のために作って自宅においてある
スペアキーをだんなに持ってきてもらってた。
今回も怒られる~と内心がっくり。
友人にも「ブルーになってるよ~」と心配された。
でも、そうだ。こういう時こそと、
「世界は私の味方」を何度も何度もぶつぶつ呟いてみた。
そんなイメージングもしながら。
で、だんなに電話で交渉する。
「三度もするなんて反省してないからだー」とか
「行ってやらん。自分でなんとかしろ」とか
嫌みも言われたし、だんなに罰金払うことになっちゃったけど。
車で30分の知らない駐車場まで、すぐに飛んできてくれた。
説教ながいし、嫌みきついので、
うひーーってなっちゃってたけど、
よく考えると、そういえば私は、
いつも決まって”だんなが家にいる日”にしでかしていて、
いつも結局すぐに飛んできてくれている。
って、待っている間に気付いた。
あー、そっか、これ、だんなが私を助けるために起きているわけ?
それにだんなの言うとおり、こんなことしちゃうんだから、
いつもスペアキーを持っていればいいのに、
なぜかすっかり忘れてしてない。
やっぱりだんなは私の味方って分からせるためなのね。
って、今更ながら、ほんとうに納得してた。

最近は会社での出来事も毎日、詳細に聞いているうちに、
私が取り組んで学んでいることと、彼が会社で学んでいることが、
ほとんどシンクロしていることが分かりました。
私が学ぶと、彼も学ぶのだね。

彼も成長して丸くなって、ほんとに変わってきたけど、
私は私で、”彼を信じること”を学んだかな。
辛辣な言葉の内にも愛があること。
彼は本当に誰よりも味方なのだということ。
私たちは繋がっていて、私が学べば、
彼も学び、成長するのだと言う事。
それは、もう絶対疑いようにないと
自信もって思えるとこまできた。

相手を変えることは出来ない。変えるのは自分。
でも、自分が変わると相手が変わる。
って、よく聞いていたけど、
ほんとうにそうだねー。面白い位に。
夫婦は、誰よりも課題の相手。
その相手とパートナーシップを気付くことが、
他の何よりも大事な課題なんだって、
よく分かりました。

一番の難敵が、一番の味方になると、
もんのすごく気持ちが楽です。
取り組んでいくと、どんどん楽になる。
特に配偶者との関係が問題という方、
これをやらない手はないですよ~。
おすすめです。

2007.11.13日記より

 

 

 

 

カウンセリングのお仕事を本格的に始める前のことですが・・・

私はみなさん一人一人にも星を出し解読させていただいてます、
人生の初期設定と、私が言っている、
生まれ持ってきた課題のひとつに取り組んでおりました。
それを済ませないと次へいけない、という課題ですね。
私はそれを初期設定クリアと言っています。

さて、私の設定はというと、

なにごともガイドの示した通りに、受け入れて導かれて生きていた私が、
今度は自分で決めて、自分で示し、自分で創造してゆくということで、
なにしろ、生まれてこの方受身だったのを、変えるわけで、
つまり、人生に受身で、すべて甘受してしまうのが設定で、
意識して人生を創造的に変えてゆくというのが、設定クリアになります。

それと、自分の能力を自分で掘り起こし、表に出さないと、
才能は埋もれたままで、地中に潜ったままになるので、
仕事として成功できないという設定で、
潜らないで地上に花を咲かせることが設定クリア。
なっかなか難しいーーーー。

でも、これから初期設定クリアの最後のレッスンなんだ、
次へ行くんだって決心して、選択して、
新しいガイドのもとで、
次々とスポ根レッスンに取り組んできました。
もーう、いいでしょ?
全部クリアしたんじゃないかなー?
まだだめなんだー???
って、ところで、実は少し停滞していたんです・・・
さすが初期設定の壁は厚い。

私の仲間も軒並みそのようで、口々に、もう少しだと思うんだけど、
まだ何か足りないみたい。
何かなー?って言っていました。
魂の仲間というのは、なぜかシンクロというか、歩調を合わせるもので、
もしくはちょっとだけ時間差とかね。
学びを深め助けるガイドたちの調整だと、私は思ってます。
もちろん、あと少しの何かは、
初期設定がちがうので、それぞれなのですが、微妙にリンクしてるの。

友人の一人は、
どうしても人の目や評価を気にするところがあって、
人の評価じゃなくて、自分がどう感じたかが大事で、
自分が自分の目盛りなんだって思えないことがどうしても残っている。
私と話していて、友人はそれだ!って気付いて、
そのへんの揺るがないレッスンに入ったようです。

私も、「現実はすべて心の反映」と言いながら、
「すべてっていったらすべて」と思ってなかったことに気付き、
反映に失敗して、誰かに責められるんじゃないかって、
自分でも気付いていなかったけど、
私の中に意識していなかった「恐れ」があるってことなんだけど、
それをなかなか克服できないでいたんですね。

なかなかすとんと腑に落ちないでいたら、
くり返しくり返しガイドに示され、大事なことに気付いた。

例えば、何か失敗して、とか何かが分からないことで、
酷くなじったり、体罰を受けることがこの世にはあるけれど。
実は「そうしないと治らないじゃないか」って、
「鍛えている」とか、「教えている」って考えが、
それをしている人にはあるのよね。
それをさせているガイドたちにもね。
価値観や表現が違うので、
なんてひどいんだー。ひとでなしー。ってされる方は思うけど、
その表現がひどいってことは置いといて、
している人の意識はどうなんだってのは置いといて、
現実は、自分の心の反映なわけだから、
魂的理由なくして起こってないわけです。

あくまで自分の問題と考え、理由の元をどんどん遡ると、
やっぱり私の魂を鍛えるために、っていう
ガイドというか、神仏というか、宇宙からの愛があって、
それゆえに起こっているわけで、
そっか、やっぱこの世の基本は愛なんだな。
って、その思いに至って納得したんです。
この世は本質はやっぱり愛から来てるんだって。

今までも、いつも世界は愛ゆえに私に合わせてくれていて、
合わせてくれた結果、このようにあるんだ。
そして、私に合わせて世界はいかようにも変化してくれる。
私が変われば私を取り巻く世界は変わるのね。
だから
「世界中はすべて私の味方なんだ!」って思うことだ。
これが、初期設定クリアの鍵でした。

恐れを手放すレッスンを何度も何度もしています。
揺るがないまでするんだな。
隅々まで”恐れ”がなくなるまで。

もう、精密にして隅々まで、徹底的にやるんです。
それが人生の初期設定ってものなんです。
すっかりきっちり分かるまでやるんです。

初期設定を完全にクリアしたらしたで、生きている限り、レッスンはあるんだけど、
でも、次はきっとすっごく楽しくレッスンになる。っていうか、楽しめるようになる。

でね。この課題をクリアしたらば・・・
とてもとても楽しい毎日が待っていたのでした。
カウンセリングをお仕事にする日々が始まったのでした。

一個上に階段上って、まず始まったのは、
実技レッスンでした。
学んできたスピリチュアルなことを、
現実に一個一個確認しながら反映させてゆく作業。

つくづくと、
現実とスピリチュアルは繋がっていて
魂と目の前に起こる事すべてが、映し鏡になっているんだなぁと、
毎日思い知らされています。

ステージ一個上ると、
ささいに、微妙に、考えや気持ちやスタンスが違ったりすると、
それがもろに現実に表れてきます。

ちょっと怒りを手放せずにいると、口の中じゅうに口内炎が出来たり、
それでいて、この場合は、自分の感情を優先するよりも
ぐっと堪えて、やるべきことを遂行する方が良い。
それが女性性ガイドの導きだと教えられて、納得すると治ったり。
”彼女”に従う方が自分のためだと知るレッスン。

そんな風に、
微調整してるみたいに、細かなレッスンをいくつもしている。

もともと、精神体のガイドと、肉体を持つ人間の間には、
物事に対する感覚が違うところがあって、
例えば、ガイドからすると、これ、ちょっと違うよって、
ちょいちょいと直しているに過ぎないことが、
現実には、事故やトラブル、病気として表れるものだから、
私たちはがーん!ってショックを受けてしまうことも多いのだけど、
これは、ガイドの合図なんだよなー。って分かっていれば、
現実を生きることは、それそのものがガイドとの会話のようなもの。
ガイドが不適当なら、神仏としてもいいのですが、

そんな風に、この頃は、メッセージのもらい方も変化していて、
生きていることそのものが、神仏・ガイドとの会話のような、
言葉ではなく、体で表現してるみたいな感じなんです。

リーディングを望まれると
(ガイドが前よりもストレートなお方なので・・)
これがまた以前よりもシビアで明確な言葉で、伝えられますが、
求めない限り、強いては言葉でなく、
日常では、圧倒的に”体現”レッスンしています。

まるで体育会系なのですーーー。

私ったら、
ハードな運動部にうっかり入部しちゃったみたいに
毎日スポ根でしごかれていまーす。

2007.09.25

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